素木しづ
底本:「素木しづ作品集」札幌・北書房
1970(昭和45)年6月15日発行
初出:不明
※旧仮名中の拗促音の小書きと、新字・旧字の混在については整理せず、底本のママとしました。
入力:素樹文生
校正:柳澤敦子
素木しづ
小さなモーパッサンの短篇集を袂(たもと)に入れて英語の先生からの帰り、くれてゆく春の石垣のほとりを歩きながら辰子はおかしくってならなかった。
今日ならって来た所の、フランチェスカといふわけのわからない女が、“What does in[#「in」はママ] matter to me ?”と、“Not at all”以外に、なに事もいはず、常に怒ってゐるのか、真面目になってゐるのか、わからないやうな態度と表情をしてゐるのが、をかしくってならなかった。
そして彼女が嫂(あね)の態度に対する不満と自分をあはれむかなしさとが、すっかりそのおかしさのなかに入ってしまった。
彼女は、まだかつて嫂を思ふ心におかしさを思ったことが一度もなかった。
「フランチェスカは、家の嫂さんとおんなじだわ、『結構です』と、『どういたしまして』、以外になんにも云はないんだもの。そしていつも、おかしいことも、かなしいことも、面白いこともないやうに、むっすりと黙ってゐるんだから。」彼女は、そう考へて、おかしくってならなかった。そして、辰子は、顔にまでそのおかしさを見せながら、何の気がゝりも心配もなく、家の玄関まで来てしまった。
彼女は、手をかけて玄関をガラッと開けた。そして、その音と同時に彼女はすっかり真面目になってしまった。敷石を静かに歩いて草履(ざうり)を、片すみにそろへてぬいだ。